Jul 3, 2024: ソフトウェアはブートストラップする
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このWikiは主に僕のツール開発にまつわる調べごとや気付きを集積するための場所ですが、自分の活動を通じた一貫した興味を、今一度まとまった文章として残しておこうと思います。
いい機会だから、これまでの仕事を通して、自分の中で一貫している部分はなんなのか考えてみるのはいいかもしれませんね。共通して興味を持っている部分ね。スキルアップしたいとかそういうことではなくて、もう一個上の階層から見てみるということかな。
予め断りをいれておくと、このテキストは論考や理論ではなく、多少なりとも自分語りとお気持ち表明を含む、「僕」という主語にまみれたものです。あえてそうした書き方をとるのは、今持っているツールに対する抽象的関心は、そこに至るまでに自分が生きていた時代性や生活実感、制作者としての具体的実践とは不可分なものだからです。その辺がどうしても塩っぱいと思う方は、適宜読み飛ばしてください。
アニメーションとメディア・アートの隙間
11才の頃に祖父の友人からクラック版Adobe Master Collectionを譲り受けて以来、今まで様々な作品をつくってきました。コマ撮り、モキュメンタリー、CG、Web作品など、それなりに多岐にわたっているつもりです。こうして振り返ってみると、集中力が続かないのか、物語というものに興味が湧かないのか、どれもノンナラティブで短い映像が多いように思えます。
https://www.youtube.com/watch?v=WSFeje8-4Vc
co-directed w/ Katsuki Nogami
これは武蔵野美術大学を中退した僕が、本来卒業制作をつくっていたであろう時期に、愛聴していたミュージシャン group_inou(グループ・イノウ)のために作ったビデオです。Google Street Viewのイメージをスクレイピングし、その上からメンバー二人の写真を3000枚超雑コラ(=雑なコラージュ)して作り上げました。コマ撮りの中でも、いわゆるピクシレーションと呼ばれる手法です。この制作のために、Street View上を「ロケハン」して画像をダウンロードするためのソフトや、撮影時に照明やカメラアングルを同期するためのシステムから開発しています。ビデオの公開後には、メイキングや開発したツールを全てオープンソース化しました。手法開発から制作をはじめ、そのプロセスを共有するという方法は、その後の自分のスタイルとして定着していきます。
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ビッグテックの知財をインディーカルチャーのために盗用するという反抗精神や、ソフトウェア開発や電子工作といった手法とコマ撮りの泥臭さとのギャップ。それは広告業界と蜜月な関係を持ち、私企業の技術デモンストレーションのためのスペクタクルへとひた走っていたニューメディア・アートやインタラクティブ業界への、若かりしながらの明確な批判でした。一方で、そうした時代性やコンセプトが脱落してもなお、 アニメーションとして気持ちいいものを作り込みたいという意図もありました。今思えば、実験映像やミュージック・ビデオ文化を出自とする身として、映像体験としての驚きと嬉しさ、それを下支えする職人的な巧さを軽んじている(と決めつけていた)メディア・アート界をも、どこかで仮想敵としていたようにも思えます。
ただのジャンル映像には収まりたくないけれど、16:9の24コマ/秒というフォーマットは、再生環境の永続性を思えば引き受けてやってもいい。スペクタクルでは終わらない確かなコンセプトはあってほしいけれど、一部のコンセプチュアル・アートが陥るような、高踏的で冷たいアートにはしたくない。そして自ら手を動かすからこそ宿るクセ、熱さ、そして技巧性にもこだわりを持ちたい。二律背反でもないこれらの性質を対比的に語ってしまうのは、美術教育を半端に終えたゆえのナイーブさなのでしょう。兎も角も、アニメーションとメディア・アートの狭間で、双方に批判精神と憧れとのアンビバレントな想いを抱きながら制作を続けてきました。
ボトムアップ・スタイルの制作
そうはいっても、ご飯を食べていくためにはペイド・ワークを続けなくてはいけないというのも事実です。当時は企業のCMやWebムービーといった広告映像をそれなりに多く手掛けていました。しかし、ナードとして、そして素朴な反資本主義的な価値観の持ち主として、これまでに培ってきたスキルや感覚が、消費を刺激するための「ネアカ」的な表現に駆り立てられてしまうことへのアテのないしんどさは次第に蓄積していきました。もちろん、広告というものがおしなべて邪悪だという極端な話でもなく、信じるブランドを世の中に広く告げたい人たちの想いに応える価値ある行為でもあると思うのですが、たまたま自分の肌には合っていなかったようです。そんなこんなで疲れてしまって、4ヶ月間、一切の「仕事」を放棄して、北海道の祖父母宅にホームステイしながら撮影したのがこのビデオです。
https://www.youtube.com/watch?v=iQi3aMQXip8
またもやコマ撮り作品です。お餅や寒天ゼリーといった、おじいちゃん・おばあちゃんっぽい和菓子がすべすべと部屋中を駆け巡ります。このカメラワークや音楽への同期を実現するために、VR用デバイスとコマ撮りソフトを統合するツールから開発しました。
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先述のStreet View作品と違い、このビデオには特筆すべきコンセプトも批評性もありません。しいていえば「刻々と変化する自然光のなかで和菓子がダンスし、その周囲をひたすらにカメラが動き続ける」という企画になるわけですが、最終形を観ていない人がこの一文を聞いて、果たしてどこまで面白いと思えるでしょうか。映像作家として、構想やアニメーション、技術開発を一手に引き受けることで見えてくるのは、要素一つ一つは地味でも、それらが相互に絡み合うことで初めて立ち現れるタイプの、いわば創発的な強度です。そこには「いい作品は、シンプルで力強いコンセプトから生まれる」という価値観への個人的な反感があります。まず、ピッチ映えするタグラインがあり、そこから具体的なルックや技術選定という枝葉が生えていく。そうしたトップダウン的な制作観において、クラフトはコンセプトの劣位に置かれる、代替可能なものでしかありません。
コンセプトとクラフトのこうした主従関係は、遡ればエピステーメとテクネの対比に始まる、人類史的にも根深い現象なのかもしれません。(『The Post-medium Condition』)ただ、一旦産業的なモノづくりに限って言えば、一つの作品を作り上げるのに必要な知識や技術があまりに広範に渡るようになったこと、制作にかけられる時間が短くなったこと、そしてそのコストを負担する専門外の利害関係者に対する言葉を中心としたプレゼンテーション技術が必要になったことが要因として挙げられるでしょう。こうして作品制作は計画 = 「何をつくるか考えること」と実装 = 「どうつくるかを検討し、手を動かす」ことへと切断され、言語化技術によって他者を巻き込む力の持ち主は、言葉にならない経験的知の担い手たる職人の上位に置かれることなりました。 こんな書き方をすると、エディターやプログラマーといた第三次産業における「ブルーカラー」的な立場に置かれているがゆえのルサンチマンのようでもあります。あながち否定はできないのですが。ただ、それ以上に計画と実装の切断によって構造的に見落とされてしまうボトムアップな面白さや豊かさに気づいてしまっている身として、コヤツらをどうにかすくい上げたい、気づいて欲しいという願いがあります。その映像作家としての実践が、お餅すべすべビデオを一人で作り上げることでした。
もちろん、良い面もあります。こうした分業ゆえに、良いコンセプトの持ち主の能力は個人の限界を超えてスケールし、映画のようなメディア産業は発展しました。問題はバランスです。コンセプト・メイキングの担い手があまりに力を持ち、作品が言葉によって説明可能なアイディアやコンセプトといったレイヤーにおいてのみ語られることは、その下位にある構造を不可視化します。それはいわば「佇まい」や「質感」のようなものであり、それらの更に背後にあるのはプロトコルやアルゴリズムといった技術的基盤です。それらは下位システムであると同時に、アイディアやコンセプトについて逡巡するための言語のありようを、本人にも気づかれないうちに上位レベルから強く規定しています。話がフワっとしてしまいましたが、超・具体的な例を挙げれば、イメージではなく言語中心に映像を考えていると、映像的なリズムが「語感」に支配されてしまう。SVGやPDFといったベクターグラフィックの枠組みでデザインをしていると、造作への発想が「明瞭な輪郭を持つ形に対する線と塗り」に縛られてしまう。そしてメッシュ・グラデーション表現は思いもつかなくなる。とか、そういう話です。実装のプロセスが透明化されることによるそうした視野狭窄へのせめてもの抵抗として、既存の制作ツールを転用したりハックするという手法を試みてきました。
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道具をつくる道具としての工作機械
本当は映像に限らず色んな作品を作っているのですが、この際、コマ撮り映像だけを紹介して終えようかと思います。これはViceのために作った、ちょっとしたキャッチ映像です。今はもう倒産してしまいましたね。
https://vimeo.com/695626316
五輪とコロナ禍の間、東京から逃げるように北海道に移住していたころに、CNCフライス盤という、ドリルを数値制御して素材の塊から目的の形を削り出す工作機械を用いて作っています。3Dプリンターが溶けた樹脂を足し算していく技術だとしたら、フライス盤はその逆。引き算の技術ですね。フライス盤のほうがずっと歴史が古いのですが。
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またもや祖父母の家の物置で撮影
こうして視覚表現や技術的な面から「つくり方」について考えている立場として、「道具をつくるための道具」としての工作機械にはちょっとした親近感を憶えます。何より、エンドミル(≒ドリル)が数値制御に従って動いているところが、どこか健気でいじらしいんですよね。だけど、工作機械の価値というのはあくまでその出力物にあるわけで、出力するプロセスそのものの意外な面白さは、使い手からも見過ごされてきました。最近だと大規模なコマ撮り作品でも3Dプリンターが活用されるようになってきましたが、CGで作ったキャラクターの表情をお面として差し替えるために使われているに過ません。
https://www.tctmagazine.com/downloads/20383/download/Untitled%20design-175.png?cb=2f0f94f5bca5e6273dd1b1ea4277a09d&w=740&h=
同じ工作機械を使った作品をつくるのであれば、切削するプロセスそのものをアニメーションとして魅せてみようじゃないか、というのがこの小品のコンセプトです。いや、「コンセプト」って言葉を使ってしまいましたが、全部後付けです。フライス盤を購入してしばらく、スタイロフォームからテストモデルを器用に削り出すさまがあまりに気持ちよく、YouTube配信でして自宅や外出先から四六時中眺めていた経験から着想を得たというのが、正直なところです。CAM (3Dモデルを削り出すためのエンドミルの計算するためのソフトウェア) やGコード(工作機械を数値制御するためのテキストデータ) を上手くコントロールし、「ちょっと削っては撮影し、ちょっと削っては撮影し」を繰りながら撮影するシステムを構築しました。 https://baku89.com/wp-content/uploads/2022/07/fusion360_gcode_2.gifhttps://baku89.com/wp-content/uploads/2022/07/proposal_illust.2021-07-20-18_40_56.gif
工作機械と僕の映像制作に共通するのは、プロセスにおける自己言及性です。つまり、フライス盤はそれ自体が道具であると同時に、道具をつくるための道具でもあります。僕のスタイルもまた、映像をつくっていると同時に、ツールや技法開発を通して映像のつくり方をつくっているとも言えます。開発といってもほんの些細なものでしかなく、フライシャー兄弟やTony Hill、伊藤高志のような実験映像作家ほどの発明は未だできていないのですが。兎も角も、Adobe製品のようなソフトウェアからVRデバイスといったハードウェアまで、既製品を強引にハックしたり転用する形で、新しいつくり方をつくるための環境づくりを整えてきました。 ハードな道具とソフトな道具
ここにきて、より根源的な疑問が浮かびます。確かにこれまで、道具がもたらす制約やアフォーダンスを乗り越えるために、別の道具を用いて道具を改造してきました。それはプログラミングや電子工作、あるいは工作機械を使いこなす技術でだったり。しかし、道具そのものに自らを改変する機能が内包されていてもいいのではないでしょうか。もっと言えば道具をつかうことと道具に手を入れることは同一視できないのでしょうか。こんな問いを立ててみたのは、そうした道具が半世紀以上前からあることを知っているからです。それがソフトウェアです。
ソフトウェアというと、メモ帳やPhotoshop、スマホアプリのような、パッケージ化された一つの実行ファイルのことをイメージされるかもしれません。ただ、ここで言うソフトウェアは、ハードな道具 = ハードウェアへの対比としての、ソフトな道具一般を指します。ハードな道具とは、その機能や動作の仕組みが予め道具に組み込まれ、後から変えることが出来ないものです。時計やからくり人形などがそうですね。そこに、オルゴールやジャカード織機といった、振る舞いにまつわるデータをパンチカードやピン配置などの形で外部入力することが出来る道具が現れました。しかしそれは依然として音楽再生や機織りという単機能の道具であることに変わらず、振る舞いそのものは道具に組み込まれた不変の性質です。ではここで、データのみならず、振る舞いを規定するプログラムをも別け隔てなく外部入力でき、メディアとしての振る舞いを根本的に書き換えることのできる道具について考えることはできないのでしょうか。それこそが、他でもなくノイマン型コンピューターです。
多くの道具はその道具を加工するために更に別の道具を必要とします。金槌をつくるには、頭を鍛造するための金床や鍛造炉、柄を削り出すためのノコギリやカンナが欠かせません。道具と、道具をつくるための道具という関係性は巨大な樹のような構造を成し、その根本には人間の身体があります。文明とは、この樹の枝を伸ばし、より大きく成長させていくこと、すなわち道具を組み合わせてより高度な道具をつくり出していくプロセスに他なりません。
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他のハードウェアとしての道具と異なり、ソフトウェアは操作の対象をそれ自身に向けることができます。つまり、それ自身に保持された記憶をもとに自らの機能をアップデートすることができるのです。このような可塑性を獲得したソフトウェアは、整然と階層構造を成す道具の連関の中に突如として現れたアノマリーであり、いわば不思議の環(Strange loop)です。ソフトウェアという名のループは、その魔性的な魅力によってプログラマーの興味を引き付け、その認知資源に寄生しながら自分自身を鍛造し続けることで、より高度な道具へと自己進化していくのです。コンピューターの技術開発は、その速度、複雑さ、微細さのどれをとっても幾何級数的に加速してきましたが、それはソフトウェアのそうした自己改変能ゆえの現象なのでしょう。 https://scrapbox.io/files/6684c37a1ac350001ccd4eb3.png
ところで、ソフトウェア開発において、既にあるプログラミング言語を用いて新しいバージョンのプログラミング言語を実装することをブートストラップ方式と呼びます。これはLispやC言語など、多くの主要な言語で採用されている手法です。ブートストラップとは背の高いブーツを引っ張り上げるために履き口についているストラップのことで、英語には不可能な動作の喩えとして “pull oneself up by one's bootstrap”(自分でブートストラップを引っ張って自分を引っ張り上げる)という表現があります。自らを用いて自分自身の新しいバージョンを生み出すことができるというソフトウェアの不可思議な性質を言い表すのにピッタリですね。ちなみにコンピューターを立ち上げることをブートと呼ぶのもこの成句に由来します。電源投入後にコンピューターの中で起こっているのは、単純なプログラムを読み込み、それによってより複雑なプログラムを読み込むという自己起動プロセスの繰り返しです。そして最終的にはGUIといった高次のプログラムが立ち上がり、OS全体の起動が完了します。ブートストラップすること、すなわちブートストラッピングは、無数のエンジニアによる技術開発というマクロな時間的スパンにおいても、個人のコンピューターを立ち上げるという局所的な場においても、ソフトウェアの自己進化を促す力学として作用しつづけているのです。
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A Gif to visualize the idiom “pulling oneself up by one's bootstraps.” - Luma
ジェネとチマチマ
クラック版Photoshopでダサいグラフィックを作り始めたのと時を同じくしてC言語を触り始めた僕は、すぐさまこうしたソフトウェアの不思議な性質に夢中になりました。つらつらと行き当たりばったりに汚いコードを書きながら、その中に現れるパターンを関数として括り出し、その関数同士を組み合わせてより高度な機能をもった関数を作り上げていく。プログラミングを通して身につけられるものとは、畢竟、道具に手を入れ続けながら道具を使う技術に他なりません。いや、むしろ道具に手を入れることと使うことを区別しない思考様式とも言えます。道具としてのプログラミング言語は、規格化されたプロダクトと異なり、カスタマイズを重ねるうちに、ライブラリやマクロの蓄積という形で自分の体に馴染むよう柔らかく変形し、使い手だけのdomain-specificな道具へと分化していきます。プログラミングによって始めて、コンピューターのソフトさを真に実感することができたのです。
しかし同時にPhotoshopやAfter Effectsという《ソフト》を使って制作をしていた僕にとって、プログラミングを通して知ってしまったコンピューターのソフトさへの理解は、むしろストレスの原因にもなりました。パイプやループ構文で簡単に実現できた繰り返し処理が、After Effectsではループの数だけレイヤーをコピーしないといけない。フォルダによる単純なグループ化は出来ても、機能のカプセル化はできない。結局のところ、一般に言う《ソフト》は、実質的にはソフトウェア上でエミュレートされたハードウェアに過ぎません。ちょうどPhotoshopが文字通り写真現像のメタファーとして作られたように。ソフトウェアのソフトさにアクセスできるのは、《ソフト》開発者に限られます。そしてエンドユーザーがその種のソフトさにアクセスするには、現状プログラミング言語によるスクリプトを書くほかないのです。
《ソフト》とソフトウェアの分裂は、次第にProcessingなどのプログラミングをベースとした視覚表現、いわゆるgenerative artという領域に自分の興味を向かわせることとなりました。しかしプログラミングというシリアルな記号列による入力は、イメージのような2次元的でパラレルな表現とどこか相容れないものがあります。というのは、 pro-(前もって) -gram(書く)という語源にもあるように、プログラムを書くには、プログラマーは作り上げたいものの構造を予め理解している必要があります。産業的なモノづくりにおいては、計画と実装とが分業されているという話をしましたが、人とコンピューターという関係性においても実装と実行という分業が生まれているのです。しかし、実際にアニメーションをつくったり、絵を描く行為というのは、得てして行き当たりばったりでチマチマとしたものです。[10, 20] という2次元座標をBackspaceキーで消しては数値を入力し、そして実行しするのと、Photoshop上のレイヤーを、インタラクティブにじわじわとドラッグするのとでは、最終的に突き詰められるよさの精度は大いに異なります。 プログラミングによるジェネラティブで計画的なアプローチと、《ソフト》の直感的なGUI環境下で、チマチマと行き当たりばったりにつくるアプローチ。その狭間で、ギリギリのところで チマチマを選んだのが僕であり、結果こうしてAdobe製品と日々制作に向き合っているわけです。そんな中でも、ツールやプラットフォームに規定されたつくり方の中で作るのではなく、ソフトウェアの可塑性を生かしながら、つくり方そのものをつくるためのささやかな抵抗が、先のコマ撮り作品なのかもしれません。Adobe関係者に「ソフトウェアに囚われない自由な表現のためにプログラミングを用いている」と評して頂いたことがありましたが、個人的実感としてはむしろその逆で、Adobeのような《ソフト》がその直感性と引き換えに手放した、ソフトウェア本来のソフトさを奪還すべくプログラミングをしているに過ぎません。マイナスからゼロの話でしかないんです。
「作り方の作り方」を作る
これまで、既存の制作《ソフト》をハックする方法をもってして、我流の「作り方を作る」としてきましたが、そもそも真にソフトな制作ツールというものは実現できないのかという疑念に至ります。プログラミングのためのツールとしては、Emacsといった高い自己拡張性をもったソフトウェアが既に存在しますが、映像やグラフィックといった分野においてそうしたツールを作ることはできないのでしょうか。そんな興味から、制作ツールをイチから実装するプロジェクトを2020年から継続しています。それがこのWikiのタイトルにもあるGlisp(ジー・リスプ / グリスプ)です。 何もいきなりAfter Effectsに代わる汎用的なツールをこしらえようという話ではなく、まずはそれぞれの制作に合わせたdomain-specificなツールを組み上げるためのライブラリを積み重ねているところです。例えば、プロユースに特化したUIコンポーネント、ベクターパスを操作するためのユーティリティ、そのための線形代数ライブラリなど。
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数あるサブプロジェクトの中でも、Glisp全体の骨子はLispというプログラミング言語を制作ツールの基盤言語として用いるというアイディアです。プロジェクトファイル、環境設定、ブラシやペンといった描画ツールの記述、そしてスクリプティングの全てに、一つのプログラミング言語を用いるのです。要するに、プログラミング言語の自由度を導入したいなら、プログラミング言語そのものを制作ツールに深く組み込んでしまえばいいじゃないかという話です。Lispは世界で二番目に古いという言語でありながら、Code as Dataとも呼ばれる特異な性質を持っています。それは端的に言えば、Lispは数値や文字列、リストといったデータと、式などのコードを別け隔てなく扱うという思想です。データとコードを区別しないこの特性によって、プログラマーはただLispを書くだけではなく、独自の言語をLispを元に(“on Lisp”)書くことができます。そんな高い自己拡張性をもった言語を制作ツールに統合することができれば、さぞかしフニャフニャにソフトな道具にできるんだろうなぁ、という雑な見通しのもと、このプロジェクトはスタートしました。 https://glisp.app/docs_old/_media/screenshot.png
実際にGlispの中で用いるLisp方言は、GUIとの兼ね合い上、マクロ機能にも制限の加わった型付きのものとなる予定です。シンタックスとしてのS式しかLispを使う旨味が無いくらいに。
Glispにおけるコードの表現は文字列に限りません。同じ円を表すコードを、Lispの式としても、数値スライダーからなるインスペクタからも、キャンバス上に表示された円そのものとしても、編集することができます。(Visual Programming)。括弧と前置記法のみからなる極限までシンプルな文法によって、全てのLispコードはGUIによるビジュアルな表現との相互変換が可能です。そして作り手は、各々のジェネとチマチマの塩梅の好みに従って、プログラミングによる自己拡張と直接編集の直感性とを自在に行き来することができるのです。 興味の無限後退
なんだか大言壮語ぶりにげんなりしてきました。実際、言語機能の実装があまりに難しく、この数年目だった進捗は無いですし、Glispを使って実際につくったグラフィックというのも、作品というに及ばない、いささか中途半端ものばかりです。しかし、現実問題実務のために《ソフト》と向き合わざるを得ないなかで、ソフトウェアとしての制作ツールを夢想し、少しずつでもプロトタイプすることが出来るのは癒やしでもあります。
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今年度のCCBT フェローシップに応募していたのですが、無事落ちました
なんというか、道具を使って何かをつくるはずだったのに、気づけば道具を作るための道具、そしてソフトウェアとしての道具づくりへと、興味がより低レイヤーへと引きずり込まれていくようでもあります。自作ツールの使い心地が最高なものになるほど、《ソフト》の使いづらさは我慢ならないものになっていく。そして、その気晴らしにプラグインやツール開発に勤しんでしまう。映像制作に対してイップスなってしまっていて、この数年まともに長い映像は完成させることができていません。
そんな話を、最近参加した藤幡正樹氏の連続講義の折に質問しました。「畑からラーメンを作る」じゃないですが、道具のありようへの関心はいくらでも遡ることができるなかで、作品制作に殉じるメディア・アーティストとして、どこでその無限後退に歯止めを掛けているのですか。道具に内在するプログラムを、ア・プリオリなものとして引き受けているのですか、と。彼の回答はシンプルでした。メディア・アートの場合、道具によって作られたものだけが作品ではなく、道具 = メディアそのものを見せることもまた作品となり得るということ。技術は技術者を信頼し、コンセプト・メイキングに集中すること。そしてそうした技術者との協働も含め、コラボレーションをしてみること。一時は納得しかけたものの、どこか腹に引っかかるものがありました。 例えば、彼が講義中に触れていたルネ・ラルー、あるいは敬愛するノーマン・マクラーレン、ミシェル・ゴンドリー、辻川幸一郎も、必ずしもコンテンポラリー・アートとして評価されているとは言えません。しかしながら、アニメーション作品としての豊かさと快楽があるし、そこに確かな思弁性も感じられます。そしてその背後にはマルチ・プレーンやダイレクト・ドローイングといった技術的な創意工夫や実験性が横たわっていると同時に、自分自身で手を動したがゆえの経験的知に裏付けされた、コンセプトに還元出来ないボトム・アップな作品強度と巧さがあるように思えるのです。僕の興味は、そうしたスペキュラティブとスペクタクル(『Spectacle, Speclative, Spam』)、エピステーメーとテクネ、計画と実装、コンセプチュアリズムと職人的技巧の狭間にあります。ここでもし、映像でいうディレクターに専念したとして、高次構造としてのコンセプトやアイディアにはフォーカスできても、日々はんだ付けをし、玉碍子をコマ撮りし、シェーダを書いているからこそ感じとることのできるルックや佇まい、映像手法の多元性が、今の映像業界の分業体制における一ディレクターとして制度に組み込まれに行くことで、霞んでしまうのではないか。それは人を巻き込むことで個人の能力を超えて可能となる表現以上に、今の僕には惜しいのです。 まぁ、結局のところ屁理屈です。どの程度ディレクションに専念するかというのも程度問題ですし。正直なところ、別に作品の良し悪しなんてものは関係なく、自分にとって心地よい作り方で作りたいという、ただそれだけの話です。社交性もコミュニケーション能力もそこまで高くない中で、言葉にはできないながらも確信のある手法を、誰かに対して説明する手間も経ずに一人でチマチマと作りきるのが性に合っている。むしろプレゼンテーションやコンセプト・メイキングのような高度に知的な労働こそ、他の人間やコンピューターに任せてしまいたいとすら考えてしまいます。こうした意味におけるソフトウェア・エンジニアリングとは、制作の中から単純反復を減らし、より本質的なコンセプト・メイキングに集中するための自動化と効率化のためにあるのではありません。むしろその逆で、制度化された単純反復や神経をすり減らす意思決定こそを雑にプログラムにアウトソースし、ユニークで良質な単純労働をでっち上げ、そこにじっくりと没入するための手段として存在します。何かを作るための道具や環境を変化させ、その結果自ずと変容する思考や手癖を、手を動かしながら愉しむ。ツール開発やコンピュテーショナル・デザインの行き着く先がコマ撮りというのも、必然かもしれません。
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山登りと技術的多元性
こうした道具立てについて考えることには、僕自身の制作体験をどうしたいかだけではなく、映像、グラフィック、しいてはシーン全体にどうあって欲しいかという願いもこめられています。最適化問題や機械学習を学んでいると、山登りのアナロジーがしばし登場します。最適化は、パラメーターのあらゆる組み合わせからなる可能性空間にそびえ立つ「よさ」の山地の中で、どのようにして最高峰 = 大域解を探り当てるかという山登りとして視覚化できるという話です。(適応度地形) ミクロ経済における山登りは、比較的単純なものです。需要と供給という2次元平面上において、「よさ」 = 経済効率の山は一つしかありません。山登りのプレイヤーたちは、ただ近視眼的に足元の勾配に沿って歩みを進めていけば、自ずと最高峰に辿り着くことができます。こうした単峰性ゆえに市場原理は機能すると言えます。
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しかし、美術やデザイン、映像制作といった、文化的営為としての山登りは、捉えようのない複雑さを孕みます。頂上はいくつもあるばかりではなく、「流行」や「飽き」という形で、プレイヤー達自身の荷重を受け、絶えず隆起と崩壊を繰り返します。このような山登りにおける道具とは、山地上を探索するための登山道具のようなものです。制度化された道具やテクノロジーは、プレイヤーたちを登りやすい山へと無意識に誘導することで、表現同士を「それっぽさ」へと収斂させる重力として作用する傾向があります。そうして人気を集めた山に対して、後付けで理論的正当化がなされることで、その山はますます高くなり、より多くのプレイヤーを引き付けるのです。建築におけるインターナショナル・スタイル、オンスクリーン表現におけるフラット・デザインのように、そうした道具的合理性こそが、美しさであり正しさである、と。
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こうした選択と集中は、たとえ効率的なものでも、外的変化に非常に脆弱です。外圧、プレイヤー、山地同士の複雑なフィードバックのなかで地殻変動を起こす山において、今立つ頂上が永劫に盤石だとは限りません。ふとした拍子に、山ごとプレイヤーが全滅してしまうかもしれません。多様性が大切なのは、それが単に倫理的に善いことであるからだけではなく、こうしたダイナミクスの中を集団として生き残るためのセキュリティとして機能するからです。
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大量生産され、使い手の思考を画一化しにかかるハードウェアと異なり、道具としてのソフトウェアは、こうした力学において、プレイヤー同士に作用する斥力といえます。使い手の身体性に合わせて道具は分化し、人と道具はその相互作用の中で共進化していく。こうした関係性において、道具の記憶によって人はプログラムされるのではなく、道具はその人の経験的知が外在化されたその人だけのものとなるのです。そうしてもたらされる道具の多元性は、プレイヤーの多様さ、そして表現の多元性へとつながっていきます。
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僕が取り組んでいる手法やツール開発というのは、プログラミングを通して垣間見ることが出来たソフトウェアのソフトさを、映像という主戦場に何とか持ち込みたいという目一杯の足掻きでもあります。こうして編み出した方法論や道具が、自分自身の制作体験をマシにするのみならず、インディーなもの、ナードなもの、言葉で伝わりづらいものをエンパワーし、シーンを豊穣なものとしていくほんの一助になれば最高です。